第13回 介護作文・フォトコンテスト 受賞作品第13回 介護作文・フォトコンテスト 受賞作品

  • 作文・エッセイ部門

    【一般部門】

    【学生部門】

    一般部門

    やさしい焼き菓子

    (埼玉県 くるみさん)

     要介護5の認定を受け、ようやく祖母を施設に入れた。
    私の両親はすでに他界していて、たった一人の肉親である祖母と初めて離れて暮らすことになった。
    当時まだ20代だった私は、働きながらの介護に疲れ果て心身ともにボロボロの状態だった。
    入居の朝、どうやって荷物をまとめたのか覚えていない。
    気がつくと施設の応接室で、淹れてもらったお茶の湯気をじっと見つめていた。

    「おばあさま、新しいお部屋を気に入っておられましたよ」
    介護士さんの言葉にハッとして、私は顔を上げた。
    「実は今日オムツを持ってくるのを忘れてしまって…」
    私は慌てた。
    祖母は肌が弱く、オムツが変わると赤くなってしまうのだ。
    私が明日の朝一番に持ってくると伝えると、話を聞いていた施設長がやさしく言った。
    「こちらで用意できますから、大丈夫ですよ」
    そういえば、入居案内書にそう書いてあった気がする。
    気恥ずかしさと安堵で顔が緩んだ。
    すると、同時にぽろぽろと涙が出てきた。
    そして堰を切ったように、今まで堪えていた思いがあふれ出した。
    「ずっとオムツを買うのが嫌だったんです。でも祖母のオムツはネットで売ってなくて、いつも近所のドラッグストアで買っていました」
    私は嗚咽まじりに話を続けた。
    「そこでたまに同級生に会うんですよ。この間も店内で彼女を見つけて、よく見ると胸に赤ちゃん用オムツを抱えていました。私は手にした介護用オムツを棚に戻しました。思わずそうしてしまったんです。それから彼女に声をかけて、ちょっとした世間話をして…。その後、彼女がレジに並んだので”買い忘れがあった”と言ってやっと別れました。棚に戻ると、さっき無造作に置いたオムツが私を待っていて…それを見てたら悲しくなってしまいました。なんて自分は小さな人間だろうと泣きたくなりました」
    そこまで話すと、介護士さんが私の背中をさすってくれた。
    施設長はゆっくりと立ち上がると、
    「ひとりで闘ってこられたのですね。大変でしたね」
    と言って、お茶を淹れ直してくれた。
    そして私の手に、個包装になったいくつかの焼き菓子を乗せた。
    「これね、ドラッグストアで買ったんですよ。最近はお菓子なんかも売っているのですねぇ。いろんな人がいろんな物を求めて、それぞれ事情を抱えながらお買い物をする場所になりましたね」そしてポンっと私の肩をたたくと、
    「今度ドラッグストアへ行ったら、オムツではなくこのお菓子を探してみてください」
    と言った。

     私は今でも、たまにあの時の焼き菓子を買っている。
    仕事に悩んだり、他人と自分を比べて落ち込みそうになったら、ドラッグストアに行ってあの焼き菓子を探す。
    祖母が施設に入居した日を思い出し、共感し支えとなってくれる人の存在を感じられるからだ。
    私は介護を通じて、自分の強さと脆さを知った。
    そして介護職の方々から、頼ることの大切さを教わった。
    この体験は、今も私の心をやさしく支えている。
     

    遠距離介護

    (東京都 大橋 菜穂さん)

    「また面会禁止だって。」 
    電話の向こうの母の声は沈んでいた。祖父の入所している介護施設から、再度面会の謝絶が伝えられたという。未曽有の新型ウィルスの打撃を、介護施設はいち早く、強烈に受けた。緊急事態宣言の発令を受け、即座に面会謝絶になった五月に続き、七月の今回は二度目だ。市内でいくつも起きたクラスターのあおりを受け、面会は完全謝絶になった。しかし、世の中ではGOTOキャンペーンが始まろうとしており、自粛中閉ざされていた遊興の波も戻りつつあった。そんな中での面会禁止の通達に母は打ちのめされていた。
    「おじいちゃんとのたった一つのつながりなのにね。」
     祖父は最愛の祖母を半年前に喪った。祖母が脳梗塞で突然倒れ入院してから、祖父は祖母と廊下伝いの介護施設に入所し、シルバーカーを押して毎日祖母を見舞った。話せなくなった祖母の頬をさすり、手を握って、時に涙ぐみながら、毎日話しかけた。
     その祖母が逝って、祖父は一人になった。
     「お母さんがいるから、僕も施設に行く。」と言った祖父は、祖母を亡くした病院で一日中ぽつんとしていた。母はそんな祖父に毎日会いに行った。おやつを持って行き、祖父が食べている間、祖父と話すその時間が母と祖父のただひと時の親子の時間だった。そのたった一つが、奪われた。
     四十九日を終え、施設に戻るその時、祖母の遺影に「お母さん、僕は病院に戻るけんね。またすぐ来るけん。」と話しかけた祖父は、そのまま家には戻れなくなった。
     母は祖父に毎日手紙を書いた。会えなくなった祖父に向け、毎日毎日ありふれた日常の些細な一つ一つを書き綴った。それが、母にできる精いっぱいの唯一だった。
     ひと月半程経ったある日、母が涙声で電話をしてきた。聞くと、祖父が母に手紙を書いてきたという。便箋も手紙もない中、祖父が使ったのは母の出した手紙だった。便箋の裏側に、祖父は懸命に母への感謝を書いた。自分を励まし続けてくれる手紙にどれだけ救われているか、どれほどありがたいか、そうして母の体調を気遣う言葉で手紙は締めくくられていた。それを母の出した封筒に宛名を母にして入れて、施設の職員に託したのだ。それからも何度か祖父は母に手紙を書いた。母の手紙の裏を使って、母に想いを伝えた。コロナが親子の時間を引き裂いた。でもそれが母と祖父を結び付けた。一番大切な祖母を喪った祖父は、祖母が生きていた頃より凛としてしっかりした。それは、自分を想い支え続けてくれる娘への渾身の恩返しと感謝だろう。介護する側、される側と考えがちだ。でも、想いをかけるそこに「する側」と「される側」はない。会えなくなったその場所で母が祖父に書き続けた手紙と祖父が母に伝えた想い。そこにあるのは、純粋に相手を想う心、ただ一つ、それだけなのだ。

    「ヨシさんと『チームヨシさん』の95日」

    (和歌山県 小長谷 恭史さん)

     ヨシさんは、御年89歳のおばあちゃんである。穏やかな海を臨めるこの町に生まれて、暮らし、そして年老いた。町の人はヨシさんを知っているが、ヨシさんは忘れてしまったようだ。「あんた、誰やったんかなー?」、ヨシさんは日がな一日、家の前の縁石に腰かけて往来者を笑顔で眺めているから、いつも日焼けで真っ黒だ。
     ヨシさんの暮らしに変化が出てきたのは2年ほど前のこと。まずまっすぐ家に帰ることが難しくなる。町を一回りしてから、誰かに助けられて、何とかたどり着ける。次に買い物だ。毎日同じ牛乳ばかりを買うヨシさんが気になった商店のひろしさんは、ヨシさん宅に行って驚いた。牛乳はほとんど腐っている。町の人はヨシさんを、すでに放っておいてよい状態ではないことに気が付く。認知症という文字が頭をかすめた。
     ケアマネジャーがヨシさんの家に来た後、ヘルパーも来るようになった。ケアマネジャーは町の人の前で訴えた。「ヨシさんの暮らしを支えるためには、町のみなさんのご協力が必要です。力をお貸しください」。異を唱える者はなかった。
     ゴミを出すのは隣家のあき子さんとヘルパーの連係プレーだ。ゴミの日の前日の夕方にヘルパーが袋にまとめて玄関先に置き、あき子さんが翌朝収集場まで持っていってくれる。買い物は変わらずひろしさんが目を光らせてくれ、大きな間違いを防げている。洗濯の方は自治会長のお内儀・はるみさんのお役目。ヘルパーが洗濯機を回して帰った後、ヨシさんに干すよう声をかけ、半分手伝いもする。町の子どもたちも負けてはいない。学校帰りにヨシさんの家の前を通り、無事を確認して家で親に報告するのだ。家で炊いたおかずを持参してくれる女性陣もパワフルである。
     ヨシさんの世話のために町が優しくなった気がした。みんなが力を合わせると困りごとが何とかなるのだ。誰が名付けたか『チームヨシさん』は町に溶け込み、大切な存在になった。
     『チームヨシさん』の解散は突然訪れた。東京に住む息子が来て、ヨシさんを東京の施設に入れるのだと言う。嫌がるヨシさんを代弁するケアマネジャーは現状を説明し翻意を促した。けい子さんもひろしさんもはるみさんも、そして子どもたちもヨシさんの味方だ。「ヨシさんが可哀そうじゃないか」、でも身内の息子には勝てない。
     ケアマネジャーが町の人に協力を依頼してから95日、ヨシさんは行ってしまった。ヨシさんは泣いた。町の人も泣いた。でも息子の立場も分かる気がする。「仕方ない、仕方ない」町の人は自分に言い聞かせた。
     ヨシさんが去った町にはぽっかり穴が開いたが、町の人はくじけていない。考えてみれば町の中で困っているのはヨシさんだけではないはず。『チーム○○さん』がもっと必要なのではないか、と話し合いがなされた。「認知症に優しい町は他の誰にも優しい町」、ヨシさんのおかげでこの町は優しくなりました。ありがとう、ヨシさん。

    暗くなるから帰りなさい

    (東京都 御代田 久実子さん)

     母が認知症になった。がんと同時発症で、重い病気を忘れるための、神様からの贈り物だったのかもしれないと思う。本人はというと「私は元気で何でもできるし、この年でボケていない」が口癖だった。妄想からくる恐怖から逃れるために施設での生活を選択したが、皆と違って自分はしっかりしているというのが、母の立ち位置だった。私達姉妹は、私達には見えない近隣への恐怖から、家の中で息を潜めている母と対峙した時は、正直あせり戸惑ったが、姉の家近くの施設で母の生活を応援していく事となった。そして、母の新生活のスタート直前に、姉に深刻な病気がみつかった。それでも姉は毎日母に会いに行き、日曜日には車で外出した。でも、姉の身体が先に悲鳴をあげた。姉の命がもう長くないと感じた時、私は母と姉を見舞った。晴天の日のドライブで、母は往復のタクシーの中で、歌っていた。そして、母が誰より頼りにしていた姉が、先に逝った。
     認知症だから、わからないから母に知らせる必要がないという人がいた。知らせたら、母が興奮して大混乱となると心配する人がいた。でも、「嘘はつかない」と母の認知症がわかった時に決意していた私は、姉が亡くなった事を母に説明した。母は泣き、ぽつりと言った。「ああ、お見舞いに行っておいてよかった。」と。十分前の出来事も、住んでいた家の事も忘れてしまう母が言った。姉の枕元に行くと「ああ、かわってあげたい。」と母は泣いた。そこにいるのは、娘の死を嘆く一人の母親だった。それからの数日は二人で泣いた。母は葬儀がすむとデイサービスを再開し、元気に過ごし、部屋に戻ると二人で泣いた。姉を想い泣いた。
     それから一年以上経ち、母は、私の家近くの施設に引越してきた。説得に数ヶ月かかったが、パンフレットや地図を見せ、なぜ来てほしいのか繰り返し説明し、最後は母が自分で決断した。持ち前の「何でもできる自分」を発揮し、大好きな歌を高らかに歌い、得意の生け花を披露しながら、新しい場に馴染んでくれた。私は姉がしていたように、母の所に通った。なぜ引越たかも、私が訪ねた事も忘れる母だったが、姉の死は忘れなかった。母は、施設の職員さんに「あなたの顔を見ると安心するの。」とお礼を言うようになった。
     その日は、朝具合が悪くなり、私は往診に対応したりして過ごした。母は痛みをかかえながら「パジャマの上下がバラバラで、みっともない。」と嘆いた。おしゃれな母には納得できない事だったらしい。そして、夕方になると私に言った。「暗くなるから帰りなさい。」と。私はもう六十すぎだと言っても、母は真顔だった。そこにいるのは、帰り道の娘の身を案じる母親そのものだった。そして二時間ほどで母は逝った。
     母は認知症だったけれども、最後まで私達姉妹の母親だった。供に歌い、笑い、泣き、伝える事を問われる私の日々は終わった。

    笑いが一番の良薬

    (静岡県 阿部 広海さん)

     “カラオケは歌う楽しさ聞く辛さ”まちの川柳大会で市長賞をもらった母の川柳だ。歌好きの母らしい一句に思わず笑ってしまう。あんなに暗かった母が、今では乙女のようにお茶目で明るくなった。
     五年前は毎日が地獄のようだった。夜中に突然発狂し、包丁を持ち出し暴れる。徘徊で高速道路に進入したり、裏山に迷い込んだりと、警察に何度お世話になったかわからない。そんな日々が二年程続いた。慌てて病院を受診した。検査の結果、レビー小体型認知症とわかった。特に困ったのが幻視の症状だった。ないものが見える。幽霊が出る。幼い子どもが、どこかのじいちゃんが枕元に来る。といって一晩中、家の中を歩き回って起きている。その度に家族はつき合わされ、寝不足の日が続く。みんなイライラして母を叱り責める。病気だとわかっていても母に寄り添う余裕もなく、ただ大声で怒ってしまう。これでは駄目だと主治医の先生に相談した。先生の講演会に参加したり、認知症介護の体験談を聞いたり、ヘルパーとも連携をとり介護について勉強した。
     現在、母は週二日のデイサービス、毎週土、日のショートステイに通所している。また毎月第四土曜日には、認知症フレンドリークラブの交流会に家族で参加している。クラブのメンバーによる合唱発表会は、この施設の伝統行事で多勢の地域の皆さんも鑑賞に訪れる。そこでの仲間との交流は、認知症への理解、介護の悩み、実践感想など、互いに語り合い励まし合い、情報交換の場として、とても有意義な機会になっている。認知症だってみんな懸命に頑張っている。歌をとおして一人ひとりが生き生きと輝いている。一人じゃない仲間がいるから、助け合って、支え合って、笑顔で生きている。心を広く、優しく、寄り添って接していけばきっと道は開ける。自分が変われば必ず母は答えてくれる。今はそう信じて介護をしている。
     僕は次の三つのことを演じきる役者になろうと決めた。
     (1)いつも明るく、朗らかに、元気よく…
     (2)笑おう、ほめよう、励まそう。
     (3)好きなこと一緒にやろう。夢中になろう。「夕べ子供が来たけんが、お前見なかったか…?」「うん、ちらっと見たよ。どこへ行ったんだろうね。一緒に探しに行こうか。そうだ何かおやつを持っていってあげよう。探険出発!」こんなことを言って母ちゃんと話をしながら町内を一周して帰ってくる。「ヒロ、つきあってくれてありがとさん。」「母ちゃん、明日デイサービス行く日だね、コーラス…楽しい…?」「楽しいよ、でもな…」母ちゃんは筆ペンと短冊を持ってきてサラサラと何か書き出した。“デイサービスお迎えですよは言わないで”さすが母ちゃんは川柳先生。笑いが一番の良薬だ。

    半径一キロメートルで生きる

    (香川県 いっちゃんさん)

     私は介護タクシーのドライバーをしている。様々な原因で歩行が困難になった方を送迎する。介護タクシーの仕事の後に、週四日、レジのパートに行く。一日十五時間働く日もある。
     私はシングルマザーで家族は十九歳の息子と八十五歳の母。母はパーキンソン病がある。現在は訪問看護を利用している。
     朝五時起床。母と息子の三食を作る。七時二十分から十七時過ぎまで介護タクシー勤務。自宅から会社までは六〇〇メートル。五分で行ける。帰宅後、母の様子を確認し、家事をして、十八時四十三分にスーパーに出勤。自宅からスーパーまでは四〇〇メートル。三分で行ける。二十二時勤務終了。半額の商品を買い帰宅する。息子が、
     「おかえりー。おつかれさま。ばあちゃんだいじょうぶやでー。」と言ってくれる。息子もアルバイトをしている。夕方アルバイトから戻ると、母の見守りをしてくれる。
     母の部屋のふすまを静かにあける。眠っている。小さな寝息。母のおでこに手をあててから、そっと撫でる。母は小柄でかわいい女性だ。女手一つで姉と私と妹と、自分の母親を養ってくれた。こんなに小さな体で。こんなに小さい手で。
     姉と妹は母と疎遠だ。母と娘。気持ちの行き違いもあるから仕方ない。姉と妹にも生活がある。こんな事を言う人がいた。
     「仕事しながらお母さんの面倒みるのは大変やろ。どっか預かってもらえばええのに」
     仕事は大抵の人がやっている。面倒じゃないし大変でもない。荷物じゃないから預けない。家族が一緒に暮らしているだけだ。
     一日三回、看護士さん、理学療法士さん、ヘルパーさんが交代で訪問してくれる。皆、性格は違う。が、共通しているのは、皆、笑顔で、母に寄り添うように接してくれる事だ。
     私は週五日仕事をする。母とゆっくり話す時間もない。でも看護士さんが母に的確で細やかな処置をしてくれる。理学療法士さんが母の硬くなった身体を柔らかくほぐしてくれる。ヘルパーさんが母を手伝ってくれる。皆が母に寄り添ってくれている。母を笑顔にしてくれる。もらってばかりだ。皆からもらったものを私は自分の仕事で返してゆく。母に寄り添ってくれる人がいるから、私は安心して働ける。自分一人でやらなければという使命感はいらない。私は自分ができる事をひたむきにやるだけだ。
     「りえさん、いつもありがとう。何もできないで申し訳けない気持ちでいっぱいです。ごめんなさい。そしてありがとう。」
     母の震える手で書いてあった。
     今、私は訪問の方達に支えられ、息子に支えられ、そして母に支えられて生きている。

    学生部門

    介護を目指す学生を応援できますか

    (熊本県 細名 優花さん)

     中学生から介護を仕事にしたいという夢を持った女の子がいます。そんな子どもが目の前にいたら、あなたはどう思いますか。
     私は中学二年生の頃、職場体験で老人ホームへ行き高齢者の方と接する機会がありました。そこで介護を仕事にして働いている職員の方を見て、私も誰かの力になれる仕事がしたいと思い介護福祉士という職業に憧れを抱くようになりました。しかし、周りの大人達の反応は「そんな体力的にきつい仕事を若いうちからやるもんじゃないよ」「汚くて臭くて給料は安いよ」と肯定してくれる人はいませんでした。それでも介護の仕事がしたいという思いは強くなり、両親を説得し介護福祉士の受験資格が取得できる高校へ入学しました。老人ホームや障害者施設に実習をさせていただき介護の知識や技術を学びました。排泄介助では匂いに慣れず三日間ご飯が喉を通らなかったり、入浴介助では汗をかきながらも気持ちよく一日を過ごしていただきたい一心で身体を拭きました。もちろん体力的にはきついし教科書に書いてあるようにはいきません。失敗ばかりする自分に腹が立ち、「大人が言うことは正しかったのかな。私には介護の仕事は向いていないのかもしれない」と悔し涙が溢れてくる時もありました。それでも利用者の方が「お風呂気持ち良かった〜」「話を聞いてくれてありがとうね」と言ってくださると心がポッと温かくなり、また明日も頑張ろうと思えました。これは介護を仕事にしている人にしか分からない魅力だと思います。利用者の方が抱えている想いや生きがいとしていることを一緒になって考えられる介護という仕事は私の誇りです。
     高校卒業後、無事に介護福祉士の資格を取得した私は、もっと子どもから高齢者まで、障害者の方や妊婦さんなど悩みを抱えている方の力になりたいと思い社会福祉士を目指して大学へ進学しました。介護だけでなく幅広い福祉を学びながら、有料老人ホームや訪問ヘルパーのアルバイトをしています。介護の道に進むことを心配していた両親も、今では一緒に介護の仕事について語れるほど私を応援してくれています。
     もし、あなたの周りに介護の仕事がしたいと思っている人や福祉に携わりたいと考えている人がいたら「大丈夫、できるよ」と応援してほしいです。綺麗なことばかり言える仕事ではないかもしれないけれど、介護は自分ではない誰かの人生に寄り添うことができます。私はこれからも介護の仕事を通して、福祉を学ぶ学生として世の中に介護の温かさを伝えていきたいです。

    19歳の再出発

    (青森県 大坪 真桜さん)

     私は、ヤングケアラーでした。ヤングケアラーとは、通学や仕事をしながら親の介護や年下の兄弟の世話をする18歳未満の子供のことです。今年、初めて全国の教育現場でヤングケアラーの実態調査が行われます。介護のために勉強が遅れたり、進学を諦めたりする影響がでています。なにより、ヤングケアラーは自分も周囲も気づきにくいです。理由は、みんなこれが当たり前だと疑わないからです。
     私は、一人暮らしをして親元を離れた今だからこそ、ヤングケアラーの自分の経験を伝えようと思います。自分の事を語るのはちょっと怖いですが、自分が再出発するためにも皆さんに知ってほしいです。
     私の母は、シングルマザーで、進行性の難病をもつ身体障害者です。母曰く、車いすより背が小さい三歳のときから私は車いすを押していたそうです。上り坂になると二人でヒイヒイ息を切らして上ったのを覚えています。
     兄二人が率先して家事や介護をしてくれたので、私は手伝いながら覚えていきました。家族で遊園地や水族館には行ったことはありません。家族で買い物に行くことが唯一のおでかけでした。でも、ふざけあいながら歩いて行くので毎回楽しかったです。母を介護するのは、他の家族とは少し違うけど我が家では当たり前のことだと思っていました。
     私が、初めて自分の生活環境をつらく思ったのは、中学校一年生の時です。
     中学校に入り、私はいじめに遭いました。多分、理由は服装が乱れているからとか、特定のグループに入っていないからとか、些細なものだと思います。当然です。私はスカートの前後ろも、集団の中でうまく過ごす方法も知りませんでした。このとき、私は周りの常識を自分が知らないことにはじめて気が付きました。スカートは、母を持ち上げるときに不便なので幼稚園の時から履いていません。友達と遊びに行くと兄に家事を任せることになるので、私はあまり遊びに行きませんでした。車いすの押し方や新鮮な野菜の見分け方は分かるのに、私には友達との付き合い方が分かりませんでした。私は家族や先生に相談せず、いじめを耐えて過ごしました。誰かに話したら、母が私に介護をさせていることを負い目を感じてしまうと考えたからです。
     高校の時、私は地元で就職するか県外に出て進学するか悩んでいました。母が心配だったからです。しかし、兄が「お前のやりたいことを、全力でやってこい。」と東京から地元に転職してまで応援してくれました。
     私は、兄の応援に応えるためにも家族と離れたこの地で再出発します。今までは母が私の中心でした。今、大学に入って初めて一人暮らしをしてみて、全ての時間を自分のために使えるようになりました。これからは、自分の経験を生かして、私のようなヤングケアラーがもっと生きやすい世の中をつくっていきます。ここが、私の再出発の場所です。

    自己肯定感を与えてくれた介護の仕事

    (東京都 三ヶ尻 友美さん)

     私は介護という仕事を通して、利用者さん、ともに働く仲間から自己肯定感を与えてもらった。
     私は介護の仕事をするまで、転職も数回あり、自分に対して常に自信が持てなかった。たまたま母が介護の仕事をしていたこともあり、介護施設であれば、家の近くで働けること、そして子供の発熱などで休んでもいいよと温かい言葉を面接で掛けてもらったことからデイサービスで働きはじめた。
     デイサービスの仕事は辛かった。上司や先輩からはいつも注意され、職員同士でも揉めることもあった。何度も辞めようと思った。利用者さん達は職員のことを本当によく見ている。頑張っているね、慣れてきたね、あなたが来てくれてうれしいわ…落ち込んだとき、泣きそうなとき何度もうれしい言葉を頂いた。仕事に慣れてくると、意思疎通が難しい利用者さんのケア時、入浴で喜んでもらえ、排泄が気持ちよくできたときに喜んでもらえた。利用者さん達とたくさんの昭和歌謡や唱歌を歌い、感謝してもらえた。毎日の達成感は私が今まで経験をしたことがないものだった。もちろん、楽しいことだけではない。自分の技術不足から事故を起こしてしまったこともあった。利用者さんがご逝去されることもあった。そのようなときに、上司や同僚は温かい言葉をかけてくれ、共に考え、感情に寄り添ってくれた。
     このような日々を過ごした数年間。介護という仕事に対し、自信を持って好きだと思えるようになったとき、もっとスキルアップをしたい。もっと役に立てる介護職になりたいと考えるようになった。介護福祉士、介護支援専門員、社会福祉士など様々な資格取得のために勉強を重ねた。仕事をしながら、家事をしながらの勉強は決して楽ではなかったが、知識をつけることで仕事に活かすことができ、知識を活用することで介護技術やコミュニケーション技術を向上することができた。
     途中で介護支援専門員となり居宅介護支援事業所に異動をした。ここでも様々な利用者さん、ご家族との出会いが私を大きく変えてくれた。一人ひとり違う人生、価値観から学ぶことは山のようにある。出会った人の数だけの生き方が、私の考え方をどれだけ広くしてくれただろう。
     介護職も介護支援専門員の仕事も私は大好きで、飽きやすい私が9年以上続けることができた。自信がなかった私が、たくさんの出会ってきた人達に認めてもらえることで前向きになれ、勉強も続けることができた。この仕事に出会えたことで人生が変わったと言っても過言ではない。
     現在、私は看護学生である。介護支援専門員をしていたときに、目の前で利用者さんが急変してしまったけれども何もできなかったことがあり、医療を勉強したいと思うようになったからだ。そして、前述のデイサービスで週1回働いている。新人の頃からお世話になっている利用者さん達が応援してくれている。私を変えてくれた介護の世界で活躍できるよう、恩返しができる人材に私はなりたい。

    介護の現場がくれたもの

    (神奈川県 さかたさん)

     「お母さんに会いたい」、母は一人で洗い物をしながら時折誰にも聞こえないようにそうつぶやいていた。介護の末亡くなった祖母への言葉に母の寂しさと後悔を感じて私は何と言ったら良いかわからずいつも聞こえないふりをしていた。大学生になっても祖母や母のことにわだかまりがあった。思い切って現場を経験すれば何かわかるような気がして、特別養護老人ホームでアルバイトを始めた。
     初めは本当に緊張した。命を直接扱う現場など初体験で責任感と未知の領域に踏み込む怖さもあった。初めて車椅子を押すときに、「これが命の重さなのか」と思ったのを今でも覚えている。慣れてくると入居者さんとも会話が増えた。特に、ある車椅子の女性が私のことを気にかけてくれた。目がほとんど見えず、耳も少し遠いけれど、「晩御飯ですよ」と手を握り呼びかけると「学生さんいつもありがとう」と声だけで私だと気づいてくれた。嬉しくてよく話しかけていた。
     やがて春になって、施設のすぐ近くにお花見の散歩に行くことになった。初めて外で車椅子を押すことに緊張しながら、私はよく話しかけるその方を連れて行くことになった。公園の様子を言葉で伝えるのは難しかったけれど「桜の花の香りがするねえ、暖かくなってきたんだね」と喜んでくれた。
     晩御飯を片付けおわったその日の夜、「説明が下手でごめんなさいね。お花見楽しかったですか?」と不安から再度聞いてみた。「年取ってこんなにうれしいことがあるなんて。何よりあなたと一緒に行ったからきれいだった。あなたの手が汗をかいてくると春になったなあって。もしかしたら、あなたよりもきれいな桜を見たかもしれないわ」私は涙ぐんで「僕もこんなにうれしいことないです」と言うと、「これから先もっといっぱいあるよ」と嬉しそうに笑っていた。ああこの職場に来れてよかったと何より思った。
     四年前、母と看取る中で祖母が亡くなった。いつも優しくて腰が悪くても孫の病気やケガがあると飛んできてくれた。今度はこっちが元気づけてあげなくちゃと思っても、起きているのか、私の姿や声を判別できているのかわからなかった。「おばあちゃん、元気にしてる?」ただ、声をかけて手を握ることしかできない申し訳なさと無力感を強く抱いていた。
     相手の感じていることや見えている世界は、本人にしかわからない。けれど、相手のことを考え続ける大切さを学び、母が後悔していたのか祖母に私が何もできなかったのか、それは私の世界でしか考えていないと思えた。一歩踏み出して祖母の話を母とするようになり、わだかまりは消えていった。
     今の世の中でこれから就活をすることに不安はある。でも、私の軸を介護の現場は作ってくれた。より人の為社会の為になっていると自信を持って言えるこの現場が、一番楽しかった。どんな職業に就けるのかまだわからないけれど、この介護の経験に感謝して、負けずに社会を支えていける社会人になりたい。

    折り鶴の応援歌

    (静岡県 青木 愛実さん)

     「すごいね。いつの間にかこんなに溜まったね。」祖母と一緒に折った、色とりどりの折り鶴を見つめる。母方の祖母は認知症を患っている。昼間は介護施設に通っていて叔父と二人暮らしだ。日曜日は母と二人で祖母の所へ行くのだが、叔父から祖母宛てに手紙が置いてある。手紙には今日は何月何日、何時頃私たちが来るから計算や漢字ドリル、塗り絵をやって家で待っていることと書かれている。すぐ忘れてしまう祖母だけど、この手紙は効果がある。祖母がいつも座る机に貼っておけば留守番をしていてくれる。家族に迷惑をかけたくない祖母の思いで約束を守るのだろう。折り鶴はなかなか折れなかったが、毎回根気よく教えていくといつの間にか折れるようになっていた。今では自慢げに私に教えてくるほどだ。認知症でも日々成長しているし同じことを何回もいうけれど、たまに始めて聞く話をしてくれると嬉しくなる。一緒に折り紙を折り洗濯をし、買い物をして一日が過ぎていく。帰りに必ず「楽しかったね。ありがとう。」と満面の笑みを見せてくれる。その笑顔がまた見たくて、次は何をしてあげようかと考えるのだ。
     父方の曾祖母は「ありがとう」と言って祖母の腕の中で息を引き取った。百歳という大往生だった。「最後は自宅で」という曾祖母の願いで祖父母が家で介護をした。曾祖母は亡くなる数か月前までゆっくりだが四点杖をつき自分の足で歩き、自分で食事もした。椅子から立ち上がるのが大変そうで手伝いたくなったが祖母はそんな曾祖母を傍で転ばないように見守り、直接手を貸し全てを援助するということはなかった。もしここで手を貸してしまったら今あるADLを低下させてしまうし、曾祖母の残存機能すら奪ってしまうことになりかねない。厳しいように見えても自立を促していた祖母は誰よりも曾祖母のことを考えていた。曾祖母が亡くなった今でも、「あの時もっと他に何かできたのではないか。もっとしてあげられたのではないか。」と後悔ばかりが襲ってくる。しかし曾祖母は最期まで家で暮らし、愛する家族に見守られて幸せだったはずだ。介護の大変さとは、対人間であることだと思う。相手が認知症だとか介護が必要な人とか関係なく、相手が同じ人間だから自分の思うようにいかないもどかしさを感じるのだ。だからこそ介護には相手を思い、いち早く気付いて対応することが必要なのだ。祖父母はプロの介護士ではないが誰が見ても一生懸命介護をしていた。私達は親や介護をする人の姿をみて、それを自分達の子供や次世代へと繋げていける。認知症は物事を徐々に忘れていき周りの人達は悲しくなりいつか自分も、と不安になる。家族がいない人、頼る人がいない人達も大丈夫だと言ってあげれる社会になるといい。介護の仕事はとても尊い。人の温もりを感じられる素晴らしい仕事だ。介護にかかわる全ての人たちが心穏やかに過ごせることを祈りエールを送りたい。

お問い合わせ

  • 第13回 介護作文・フォトコンテスト事務局
  • 【電話】03-5843-9754 (平日10:00~17:00)
  • MAIL: info@kaigo-contest2020.jp
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